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BABYMETALの謎を解く

妄想で突っ走ってます!(◎_◎;

METAL Resistance 一般ベビ学講義?(ベビメタリアン第二白熱教室)

(前回、METAL Resistance 一般ベビ学講義?(ベビメタリアン第一白熱教室) より続き)

 [約5300文字:長い上に理屈っぽいDEATH!|д゚)]

 

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The ONEが鍵

 

BABYMETALの2ndAlbum『METAL Resistance』とは奇妙なタイトルだ。

英語ネイティブの人にとってもピンとこないらしい。

 

 

 

メタルに対する抵抗なのか?メタルによる抵抗なのか?

はたまた金属抵抗なのかw

 

 

しかし、記事中のmonsterpandaさんの解説により、これは「日本の造語」であり、「フランスのレジスタンスの戦士に対する日本的ロマンチシズムに関係」しており、「自由のために戦う戦士」の意であると指摘されている。

 

 

だが、これだけでは「何の」自由のために戦うのかはっきりしない。

やはりヒップホップに対するメタルの自由を取り戻すための戦いか?

あるいは現状維持に満足する石頭のメタルエリートに対しての戦いか?

 

 

少し記事を下ると、YuuraiyaIppuさんとBasil_Bさんのやり取りで、

「The Oneのアイデアから社会主義の概念に一致する」のではないか?

との仮説が述べられている。

がしかし、資本主義や社会主義は社会の「構造」であり、ベビメタは社会構造の変革を主張している政治バンドではないので、これもまたいまいちピンとこない。

それにその前のjabberwokkさんが紹介している5月革命コンサート紙芝居の中の言葉「すなわち己との戦い」とまったく一致しない。

 

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つまり、

 

一向に『METAL Resistance』の意味がわからないのだ!

 

 

しかしながら・・・、

THEONEの概念を西洋哲学で解いていくとある考え方が見えてくる。

しかもそれは今、自由と対立、格差と平等(規制)の諸問題で混迷する世界に対して、あるひとつの答えを示しているように思われる。

 

 

THEONEの複雑な概念を紐解くとき、

自由とは?平等とは?私とは?私と社会の関係性とは?等々の答えも明らかになり、今、世界中の人々が切実に求めている新たな世界の未来像を、私たちは手にすることができるだろう。

 

 

以下、順次この難問を解いていくことにしよう。

※なお、筆者は仏教学を専門とするところであり、西洋哲学は入門書程度の知識しかないため、もしかすると頓珍漢な内容となるかも知れないこと、予めご了承ください。←ま~、とはいっても逆に専門知識がないため自分でも理解できるような平易な表現(しかできないw)ので、判り易くなるハズ、だと思うんだけどなぁ~

 

では、ベビメタリアン第二白熱教室、講義?開始~

 

 

 

「違う」にみる問題意識

 

 

歌に歌詞(言葉)がともなう限り、そこには必ず何かしら伝えたい想いやメッセージ・主張がある。(まぁ、当然ですね)

 

 

しかし、案外見逃しがちな点は、伝えたいメッセージがあるということは、その裏には必ず現実的な何かがあり、それに対する問題意識が歌詞に込められているいうことだ。

例えば、その歌が愛や平和のメッセージを伝えようとしているのなら、その背後には、憎しみや争いが現実的に存在しているということを示している。

ならば、METAL ResistanceもThe ONEも、その背後には何かしら現実的な事象が存在し、それに対する問題意識が表現されたものだということが推察できる。

 

 

ではその現実的な事象=問題とは何か?

その現実的な事象を明らかにすれば、おのずとTHE ONEに含まれるメッセージの真意もMETAL Resistanceの意味も明らかになり、なぜ「精神一到」なのかも明確になる。

 

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したがって「現実的な事象」を明らかにしていくことがこの謎を解く鍵となるが、最初の鍵となるのが「違う(仮名)」だ。

なぜなら、この「違う」の歌詞のメッセージは、一見するとTHE ONEとは真逆であり「ひとつになる」ことではなく、一人一人、個人個人が「違う」独立した存在であることを表現した歌だからである。

しかしある角度から見ていくと、実は同じ現実的な事象に対して、同じ問題意識から生じたものであることが理解できる。

 

 

まずはここからはじめよう。

※新曲「違う(仮名)」の正式タイトルは「YAVA!」と発表されましたが、
 論の趣旨から、この記事では当初の「違う」をそのまま使用します。 

 

 

「違う」が暗示する三つの現代社会の問題

※注:独自解釈です。

 

 

 〈歌詞〉

 

どれでも同じ でも みんなそういうけれど なんかちょっと違うよね

やっぱちょっと違うかな

(違う違う)て何よ?(違う違う)て言われても

(違う違う)知らんってなんかちょっと違う

気になっちゃってどうしよう 気になっちゃってどうしよう

あれどっち これどっち

パーリラパーリラパリラリラーン

気になっちゃってどうしよう 気になっちゃってどうしよう

あれどっち これどっち 

パーリラパーリラパリラリラーン ピッポパッポピッポッピー)

 

どれでも同じ

でもみんなそう言うけれど なんかちょっと違うよね やっぱちょっと違うでしょ

(違う違う)ってなによ(違う違う)ていわれても

(違う違う)違う (違う違う)違うのだ!

なんかちょっと やっぱちょっと 違う

気になっちゃったどうしよう 気になっちゃったどうしよう

あれどっち これどっち パーリラパーリラルー

気になっちゃったどうしよう 気になっちゃったどうしよう

あれどっち これどっち パーリラパーリラパリラリラン

違うわー

 

(ブレイクダウン)

 

あれも違う これも違う どれも違う これも違う

あれも違う これも違う かなり違う かなり違う

なにか違う なにか違う どれが違う どれが違う

あれも違う これも違う ああ全部全部違う

(やばい)

 

気になっちゃったどうしよう 気になっちゃったどうしよう

あれどっち これどっち パーリラパーリラルー

(やばい)

気にすんなっていいんでしょ 気にすんなっていいんでしょ

あれどっち これどっち パーリラパーリラルー

(でもね)

 

違う 違う(よね) 違う 違う(だよね)

違う 違いすぎて困る 

パーリラパーリラパリラリラーン (ピッポパッポピッポッピー)

 

〈趣意〉

 

それまで周りのみんなが「どれでも同じ」だと言っていたことが、

それぞれ違っていることにふと気が付く。

そしてさらによく周囲を見回すとすべてが違っていて、それが次第に確信に変わる。

しかし、それらがあまりにも多すぎてどうしたらよいか困惑してしまう──。

 

 

〈解説〉

 

これが「違う(仮名)」の趣旨だが、普通に考えるならば、人も物もそれぞれ独立した存在なのだから「どれでも同じ」はずはなく、「違う」に決まっている。

疑いようもない。

しかし、疑問なのは「なぜその〝違う〟はずのものを周りのみんなはどれでも同じ」だと捉えてしまうのか?

 

実はその背景には、自由と民主主義によって価値観が多様化した、現代社会における自己の在り方=アイデンティティの問題と大きな社会的問題が潜んでいる。

3つに分けて考察することにする。

(なお倫理観・規範意識についての問題もあるんだけれど、これについては別途記述の予定、、たぶんw)

 

 

1.違うことが認められないーアイデンティティの不安

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空気が読めない(KY)

 

ひと頃流行った言葉だ。

ご承知の通りこの言葉は、互いの意見や人格を尊重して協力し合う協調性とは異なり、ある特定の〝場(グループ)〟において、話や雰囲気の流れを読むことが出来ず、そこから外れた発言や行為をすることを指す。

そして、グループの雰囲気=和を乱すことにより〝浮いてしまう〟ことを極端に恐れ、自己を抑制し周囲に合わせる傾向が生じた。ことにまだ自意識が十分に発達していない小中学生の間などでは、イジメのきっかけともなった。(今もそうかな?)

 

これは、その昔の封建制の農村などならいざ知らず、自由と民主主義が発達し「多様な価値観が認められるはずの」現代においてはとてもおかしな現象だ。

現代は、誰でも自由に自分なりの考え方や感性・価値観を持つことが出来るにも関わらず、だ。

しかしながら、よくよく考えれば、実は自由だからこそ生じた問題だということが理解できる。

 

どういうことか?

民主主義と自由が発達したおおよその先進国では、同時に資本主義経済も発達し、豊かな社会が実現され、個人が自分なりの価値観でより自由に好きなことを選択して生きる可能性が広がった。

しかし、価値観が多様化するということは、社会全体からすれば共通の価値観や規範なども多様化するということであり、逆に、明確な基準という物差しがなくなってしまうことを意味する。

そうすると、個人の側からは「自分は何をすれば周囲に認められるのか?」「自分は何をしたらよいのか?」、そもそも「〝自己〟をどういう基準に合わせて確立したらよいのか?」というアイデンティティの不安が生じてくる。

絶対的な基準、これが正しいという基準がなければ、どうしても人は右を見て左を見て周囲を窺い、周りと同じであることを確認して(そこで安心して)、自分の立ち位置を決めるより他なくなってしまう。

※だからこそ、前回紹介したマイケル・サンデル教授の『正義』の在り方・基準が話題となる。 

 

以上のような理由から、

・極端に自己を抑制し互いに〝空気を読んだり〟

・自己の基準が判らず〝自分探しの旅〟に出たり、

・あなたはあなたらしく〝ありのままで〟いい、と他者の承認により安心したり、

・逆に、他の価値観や規範を完全に無視することにより自己を確立する〝ジコチュー〟

 

といった現象が起きているのであり、

いずれもアイデンティティの不安がその根源にあるのである。

 

 

2.見えざる権力ー他者からの視線

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また、哲学者ミシェル・フーコーは著書『監獄の誕生』で次のような指摘をする。

フーコーによれば、権力とは無数の力関係であり、人間関係の至る所で発生し、しかも上から下に抑圧的に働くのではなく、下から自発的に生じるのだという。

フーコーは、パノプティコンという監獄を例にして説明する。

パノプティコンとは囚人からは看守が見えないため、逆に「いつもどこかで監視されている」感覚を抱かせる監獄である。

ここでは、実際には看守がおらず監視されていなくても、「監視されている」という意識から、絶えず不安を抱き続けることになり、結果的に実際に監視されていなくとも、規律正しい行動をとりはじめる。

 

つまり、自己の内面にある監視者の視線そのものが看守となるのである。

フーコーは、これと同様のことが、監獄だけでなく学校・工場・病院・家庭といったあらゆるところに見い出され、現代社会もこういう権力関係によって支えられていると指摘し、従来の権力論をひっくり返してしまった。

 

長々と説明したが、要するに判りやすい身近な言葉でいえば「常識」ということだ。

先の言葉でいえば〝空気〟といってもいい。

人は無意識に、常識という他者からの視線を察して、自ら内面に(仮想上の)ルールを作り上げて自己規制してしまう。

これが恐ろしいのは、集団やグループ内で形成された〝空気〟は、見えない権力となって働き、その〝場〟の空気を察しないものを排除してしまうことである。

(ニュースで見聞きする、集団によるイジメや会社でのパワハラなど、まさにそう。)

 

いずれにせよ、この問題は前項と同様、アイデンティティ確立の問題へと収束する。

 

 

3.ナショナリズムー対立する世界

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1項の「空気が読めない」「自分探しの旅」等だけを見ると、なんとなく日本だけの特殊な現象のような印象があるが、しかし、2項を合わせて考えると世界的に(現在進行形で)起きていることが理解できる。

 

 

どういうことかというと、

2項のフーコーの権力論を敷衍するならば、「違う」ことを認めず、周囲の考えに自己の考えを合わせてしまう考え方は、容易にポピュリズムナショナリズムへと発展してしまうからである。

つまり、民族や人種・国ごとの大きな集団単位でみれば、その構図はイジメの集団と同様であり、事実、世界では愛国心や宗教観など共通の〝常識〟でグループが形成され、考えを異にする少数派を排除・疎外する保守的な傾向が、世界のあちらこちらに広がっている。

 

 

またそれだけではない。

大きく形成されたグループ毎の考えもまた異なるため、国や民族・人種単位の対立へと拡大していく。 

「違う」ことを認めず、自分が所属するグループだけ「同じ」だと考えていたならば、その先には一体何が待ち受けているか。

言わずともこれを読んで頂いている方はすでにお分かりのことと思う。

 

 

いずれにせよ「違う」ことを認められない考えや価値観は、相手の自由を奪うだけでなく、自分自身の考えや価値観を見失わせ、自由に生きる可能性を奪ってしまう・・・

 

 

まとめ―第二白熱教室、閉講~

 

 

サテ、ここまで長々と「違う(仮名)」が暗示する三つの問題を述べてきた。

では、そもそもこの歌は何を伝えようとしているのか?

それはもちろん、それぞれが独立した違う存在であるということだ。

 

 

しかし、単に違う存在だということではなく、もしも、前述の三つの問題を踏まえているならば、決して〝空気〟や〝他人の視線〟に流されることなく、自分自身に自分の考えを問い掛けると同時に、自己とは異なる価値観を持つ他者(相手)との違いを認め、さらには相互に違いを認めることにより、価値観の違いによる対立を乗り越えていく…

 

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まさに聴く人々に、

「どれでも同じではない!」「違うのだ!」という

厳然として存在する事実を伝える歌なのだ、

 

と筆者は考える。

 

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次回に続く|д゚)

 

 

 

 

 

 

 

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